松たか子が『カルテット』で語る「人生の3つの坂」の「まさか」は「たまさか」の間違いではない?
「人生には3つの坂があるそうです。上り坂、下り坂、まさか」
って松たか子がいう『カルテット』。
これがどうも納得いかないんですよね。
上り坂、下り坂はまだしも、「まさか」ってそんなにありますか?
自分の人生にはない「まさか」が見たくてドラマや映画や舞台や小説やマンガがあるんじゃないでしょうか。
このドラマでは、その「まさか」が、バイオリン、バイオリン、ビオラ、チェロの4人の奏者がカラオケボックスで別々の扉から一斉に出てくるという、ドラマというよりは演劇の舞台のようなシーンです。
ふつうこれは信じられない種類の偶然です。しかし、松たか子はこれにだまされないといけない。といいますか、取り急ぎ、だまされたことにしないと話が進まない。
4人が出会ったことについて、松田龍平が言っています。
「僕は運命だと思っているんです。ほら、僕たち東京のカラオケボックスで偶然出会って・・・しかもその4人が4人とも奏者で・・・(中略)・・・弦楽四重奏組むしかないですよね」
松たか子に何とか信じ込ませようという偽装工作ですね。
でもそれが誤算で、そのうち騙してる側が本当に運命だと思い込んでいってしまうことになるのでしょうか。『テラスハウス』のようなものでしょうか。
たぶん、これは騙し絵のようなもので、見えている景色がいつのまにか違う意味の景色にすり替わってしまうというものなのかもしれません。
つまり、運命か偶然かというのが主題、言い換えると、「まさか」か「たまさか」。ちなみに、「たまさか」と「だまし絵」は辞書で同じページに載っていたりします。
だとすれば、ある人が言っていたという人生の三つの坂のひとつは「まさか」ではなく、本当は「たまさか」だと松たか子は思っているのかもしれません。
何が起きたとしてもただの偶然。たまたまそうなっただけ。いくら悲しくても、起きてしまったことに大した理由はないから、悲しんだってしょうがない。でも悲しくてしょうがない。そのたまたまは自分が引き起こしたのかもしれないから。
松田龍平の言う通り、その出逢いが本当に運命だったらそれはただのラブストーリーになってしまいます。脚本の坂元裕二は、「いつ恋」が最後のラブストーリーだと宣言していたわけですから、ここで描かれるのは運命の恋ではないはずです。
奇跡か、ただの偶然か。運命か、仕組まれたものか。恋愛とミステリーは似たようなものだという坂元裕二のドラマ論としても見ることができます。
意味深なセリフはまだあります。
「音楽というのはドーナツの穴のようなものだ。何かが欠けている奴が奏でるから音楽になるんだよね」
吉岡里帆がイッセー尾形の言ったこととして言ったセリフです。ちなみにイッセー尾形は余命9カ月と偽ってステージに登る嘘つきとして描かれています。
これは坂元裕二の演技論、俳優論かもしれません。恐ろしいことに。「音楽」は「芝居」に置き換えられますから。
たぶん若くて無垢な吉岡里帆に無邪気に言わせて、それを聞いた時の他のキャストの表情を坂元裕二は眺めて楽しんでいるのではないかと。
弦楽器は中身が空洞です。弦の振動が空洞によって増幅して音の響きになります。
俳優も中身は空っぽであってこそ、セリフが響くという意味だとしたら?
空っぽとまではいわなくても、俳優には何かが欠けているという意味だとしたら?
何かとはもしかしたら「自我」あるいは、ある意味での「魂」だとしたら。それとも「愛」?ふつうの人間の真ん中にあるべきものが何らかの意味で、何らかの形で失われてしまっているからこそ、他人を自分の中に入れて、別人格を演じるという美しい嘘をつくことができる。持つべきものを持っている人間は音楽にしろ芝居にしろやる必要はないという意味なのだとしたら?
「たまさかる」という古語があります。「魂離る」と書きます。「魂が離れる」、つまり、心ここにあらず、ということです。
みんな演奏はしているんだけど、集中はしていないわけです。いろんな事情があるわけですから。
でも、それと同時に、現実から逃避して魂離るために音楽をやっているのかもしれないのです。
仕事とは「たまさか」だったりしますよね?
椎名林檎が書いてキャストが歌うエンディングテーマには言葉の鎧も呪いも脱ぎ去りたいというフレーズがありますが、劇中では小道具に象徴されています。
松たか子は結婚指輪、松田龍平はメガネ、満島ひかりは靴下、高橋一生はパンツ(さすがにこれは映りませんが)。みんな演奏の前に脱いだり外したりします。どれもいろんなものに人間を縛りつけるもの、その結果、あるいは象徴です。
そして、それぞれがはまってしまっているのっぴきならない事情と、そのためについている嘘が、今後剥ぎ取られていくのでしょう。その過程で、惹かれ合ったり、傷つけ合ったりしていくのでしょう。おとならしく、無邪気に。
しかし失踪した松たか子の「夫さん」を象徴する小道具が靴下。満島ひかりとかぶっているのはどうなんでしょう。まさかそこがつながってくることはないと思いますが。
また、心ここにあらずということで言えば、満島ひかり、ワンフレーズだけ吹き替えではなく松たか子に音を聞かせるところ、ちゃんと弾けて嬉しい感じがあからさまに出ています。
嘘と真実をめぐる繊細でなければいけないドラマで、リアルと虚構がごちゃまぜになると、わけがわからなくなります。
だから音楽ものにしなければいけなかったのか、疑問は残ります。「カルテット」という言葉に捉われすぎたのではないですか。
それより、これじゃないですか。その名も、そのまま、オバチャーン!
なんでこれかと言うと、リーダーの舟井栄子さん、ベンツ乗り回してた社長夫人が、夫の会社の倒産で、いきなり人生のどん底に。魂の叫び、これぞ日本のラッパーのリアル。
松たか子の言ってた、ある人が言ってたという「ある人」ってこの人なのか?産経WESTの記事にその証拠ではないかというものが・・・これこそまさかっちゅうことやね。
--予想を超える大反響ですね
人生には「上り坂」と「下り坂」、「まさか」の3つの坂がある、と言いますけど、今がその「まさか」ですねん。「まさか」ちゅう言葉はね、悪い意味の時に使いますやんか。今まで、そう思てましたんや。せやけど、「まさか」がこんなええ方に使えるなんて…。
私らのパフォーマンスを見て、若い子も年配の方も「かわいい」「パワーもらった」って言うてくれはるから、うれしいですやん。「私らは誰にパワーもらうねん」と思いますけど。お客さんのパワー吸い取ってるんやろか。せやけど、おおかた70(歳)近いのにね。こんな楽しいことさせてもらって、オバチャーンに満足してます。
上り坂のある人生には下り坂もあり、どっちに差し掛かるときにもまさかがあるのでしょう。でも、上り坂も下り坂も特に感じないような穏やかでなだらかな人生には、まさかはなくて、たまさかしかない。
たまさかを生み出すものは、運命を生み出すものと同じ力であったとして。
弦楽器の弓の運びのように、寄せては返す波のように、行ったり来たりするだけの、どこにもたどり着かない音の連なりでさえ、いや、だからこそ、そこにしか生まれない心地よい調べがいつしか奏でられていること。
全てはやがて静かに収まっていく。ドラマとしてのミステリーも、ミステリーとしての恋愛も。ゼロ・グラビティーの静けさへと。
つまり、
狂騒曲は、やがて協奏曲へ。
それは?