私の家庭には会話がない。正確に言うなら、言葉がない。
我が子のためだ。
やむをえまい。
我々は、ある画期的な教育プログラムに参加している。
これが英語教育の最先端だと聞いている。
私の理解では、このようなことだ。
英語がカラダに入ってこない理由は、既に日本語での思考回路が確立されてしまっているからである。
日本語で考えればいいのに、英語を覚える必要がないと、脳が判断してしまうのだ。
ならば、日本語の思考回路を作らなければよい。
あるいは、できる限り遅らせるのだ。
専門家の間にも、日本人である限り、しっかりした日本語をまず身に着けさせるべきだという根強い議論がある。
そのように旧世代が考えるのは、自らの自尊心を守るためだけでしかない。
「私は実は英語はそれほどでもないけれど、その分、日本語はしっかりできますし、アタマもしっかりしてますから」というわけだ。
アタマと日本語を話すことは、まるで関係がない。むしろ、何語のアタマをつくるのかが問題なのだ。
日本の国際的な存在感など地に堕ちたこの世界。
世界は前進を続けている。日本は澱みきったまま、何ら対策を示せない。
まるで、ぬるま湯に浸かった井戸の中の蛙だ。
蛙も狭い湯の中では泳ぐことを忘れ、いつか溺れるのに。
英語を身につける臨界期は12歳までと言われている。
あまり時間はない。
しかし、昨今のインターナショナルスクールの異常な人気で、いわゆる≪英語イマージョン待機児童≫が社会問題となっている。
将来の社会格差に直結する問題として、少子化の進行で自動的に解消した保育園の待機児童問題とは比べ物にならない拡がりを見せている。
公立、大半の私立での英語が不自由な教師によるなんちゃって英語教育は国際的にも嘲笑の的となり、『これは本当にコメディーではないのか?』と海外メディアの格好の餌食となっている。
現状の中で我々親が家庭内で実践できることは、インターに入る順番が回ってくるまで、いかに日本語の思考回路を作らずにいられるか、である。
これはそのためのサポートプログラムなのである。
というわけで私の家庭には会話が一切ないから、
我が子は、とてもおとなしい。
感情の起伏も全くない。
ピュアホワイトで理想的な状態だ。
これでことばを覚えたら、どんなに素敵なことを言ってくれるだろうか。
そして将来、社会に貢献する良き人材となってくれると信じている。